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2023年4月22日土曜日

修学旅行記 1 集合~被爆体験講話

  何回かに分けて、修学旅行の様子を紹介します。もともと担任の先生は俗にいう「ハレ男」。実はお名前にも「晴」が付くほどです。そのためなのかどうか、この2日間大変天気がよくて、初日は快晴で気温もぐんぐん上昇し、私も上着を腕にかけていました。2日目も晴天。日中は気温が高く制服を脱いですごす子が多かったですね。
 約1月後に広島サミットがあるために、市内各所に警戒態勢が敷かれているようで、多くの警察官の姿を見ました。普段は警察官などいない慰霊碑前や平和公園の中も、警視庁の警察官が警戒に当たっておられました(全国の警察から応援が入るのでしょう。宮島では香川県警の警察官が警備にあたっておられました)。サミットが近づけばより警戒が厳しくなり、交通や生活に大幅な規制や制限措置がとられるようで、地元の方はすでに覚悟しておられるそうです。

 では、今回は早朝の集合から被爆体験講話まで。
 (6時10分学校発)
(琴の浦PAで結団式)
(今回は修学旅行団長として参加しました。)

(児童代表挨拶。本校6年生)

 山陰道・松江道・中国道など経由して、広島高速の長いトンネルを抜け太田川放水路を渡ると、100万都市広島のビル街や市街が突然目に飛び込んできます。歓声を上げる子どもたち。高速を降り、100m道路を東進して、いよいよ平和記念資料館に到着しました。

(「外国語」の成果でしょうか。本校の子に限らずですが、子どもたちはすれ違う外国の方に、気楽に、積極的に「hello!」と声をかけるのです。私が6年生を担任していた頃は、進んで声をかける子はそんなに多くなかったような記憶があります。まあ、「hello」のあとの会話が続かないのがやや残念ではありますが…。)

 平和資料館の地下に降りて、被爆体験講話を聞きます。今回は飯田國彦さんという方のお話を聴かせていただきました。満州国官吏だった父親が招集されたのを機に満州から母の実家のある広島へ帰国。爆心地近くで被爆したものの奇跡的に生還。しかし、父は沖縄で戦死。母、姉、祖母など原爆などで次々に失い、天涯孤独となられました。また自身の健康も失われ大変ご苦労されたようです。でも、そのような中でたくましく生き抜いてこられ、今は使命感を持って被爆の体験を語り継いでおられます。
 被爆の実相を伝える話で、かなり悲惨な表現もありましたが、琴浦町140名の子どもたちの心にはどうのように響いたのでしょう。終わりには、本校の6年生を含め、2名の児童が代表して直接お礼を述べました。

(赤碕修学旅行団を代表して、本校の6年生が感想とお礼の言葉を述べました。)