開校以来地域とのつながりが深いのが本校の特長。その代表的な行事がこの全校遠足です。統合前の3小の校区を毎年順番に回り、統合10年目の今回は成美地区の3回目です。これで、安田・以西・成美地区とも3回ずつ遠足を行ったことになります。1度だけ雨のため次年度繰り延べがあり順番がずれましたが、子どもたちは卒業までの6年間の間に、3地区を2回ずつ訪れることになります。
ほとんどの職員は12個のふなのえ班に随伴、あるいは補助につきますので、運営や安全確保にあたることのできる職員は校長、教頭など数名のみ…。でも、大丈夫。本校の遠足は、地域の方々のお力によって支えられています。要所要所での安全確保、各訪問先やポイントでの説明役、またアクティビティの運営等々、すべて学校・地域戦略会議や学校運営協議会に関わる地域ボランティアの方々が進めてくださるのです。昨年度は20名を超える方々にご参加いただきました。今年も20名近い皆様に参加していただきました。毎年本校に着任した教職員は「こんな遠足は見たことがない」と驚くのですが、本校では開校以来このスタイルです。本当にありがたいことです。
さて、では写真を多めに、予告編に続いていよいよ本篇の始まりです。写真が多いので、3回に分けて様子を紹介します。
(今日お世話になるボランティアさんと対面。写真には10人程写っておられますが、半数の方々は現地ですでに待機しておられます。)ノリノリで「お城BINGO」ゲームをお進めになるベテラン男先生。出題用紙の20個の天守のはすべてカラー印刷。準備段階から熱の入れ方が違います(笑)。
BINGOになった班から出発です。交差点や横断地点では、ボランティアさんや箆津の駐在さんが安全確保にあたってくださいました。
最初のポイントは城山の先端に今も残っている「防空壕」跡と成美神社。学校の西に接している城山に戦国時代にお城があったことはこのHPでも何度か触れてきました。ちょうどここ琴浦町周辺は、織田信長(方面軍司令官が羽柴秀吉)と毛利輝元(方面軍司令官が吉川元春)が激突する最前線でした。秀吉による鳥取城攻めにより鳥取城は落城しましたが、その影響は毛利家にとっては大変大きく、織田対毛利の全面対決の最前線が、「八橋表(八橋城付近のこと。現在9号線を走っていると、八橋駅のある比高10数mほどの小さな丘とその麓が八橋城。毛利にとって東伯耆での最重要拠点でした。)」にまで後退することを意味しました。「勢いに乗る織田の大軍を、兵力の払底した毛利が、ちっぽけな八橋城で支える」という困難な状況になったとき(それは毛利家の敗北・滅亡を意味することなのですが)、なんと「本能寺の変」が起こりました。結局、秀吉は毛利と和睦したため、江戸期を迎えるまで、ここ琴浦町付近が、豊臣方(湯梨浜町羽衣石城主南条家領)と毛利方の境界になりました。
おっと、筆が滑ってしまいました。その城山の突端に、先の大戦中に掘られた防空壕が残っているのです。当時は重機はありませんから、つるはしなど手作業です。その様子を地域の方が語ってくださいました。
(この公園は、移転前の成美小学校があった場所です。そんな歴史にも触れることができます。)(「つるはし」を実際に持ち上げてみます。当時の作業を想像してみましょう。)
(なかはこんな具合です。)
成美神社では、昨年度2年生が訪ねた時に応対してくださった宮司様が、今回もお話をしてくださいました。
次のポイントに移動します。途中にチェックポイントがありました。課題は「大きな声であいさつをしよう」です。地域の方に判定をお願いしています。