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2022年6月29日水曜日

ふるさとを知る 続

  赤碕小のある「みくらが丘」を降り、町バスは菊港へ向かいます。ここでは、岩田さんに教えていただきます。

 現在、赤碕港といえば漁港のイメージですが、江戸・明治初期までは、ここ菊港が赤碕の中心の港でした。当時は鉄道も陸路も整備されていない時代ですから、すべての生活物資は海上輸送で運ばれたといってもよいでしょう。琴浦周辺の生活物資は、この菊港に陸揚げされ、陸路で村々へ運ばれていったことでしょう。
 大ぶりの船は(江戸時代には巨大な船の建造は認められず、大きくても「千石船」と称される程度の大きさまで。しかも帆柱は1本しか許されませんでした。私たちがイメージするこの時代の船は、甲板がないのでまるで「たらい」を浮かべたような、そして白い帆1枚で風を受け沖合を進む船ですね。)、海底が浅くて港に直接入れませんから、沖で停泊し、その船と港を小型の船が荷物を積み込み往復していたのです。実はそれが普通で、現在のような水深のある埠頭に、大型の船を横付けするような方式は近代を待たねば現れませんでした。
 当時、菊港も殷賑を極めたと思います。旅館やお店も賑やかだったことでしょう。(周辺には今でもそのころを感じさせるものがわずかに残っています。)「波しぐれ三度笠」前に集まった子どもたちに向かって、岩田さんは、そんなことを子どもにわかるようにお話ししてくださいました。

(菊港と赤碕小学校。赤碕小は「みくらが丘」と言われる標高20mほどの丘の上にあります。この丘の麓、現在赤碕地区公民館があるところには、江戸時代鳥取藩の「藩倉(灘蔵)」の一つが置かれ、ここら近辺から収公した年貢米を保管していました。そして菊港から沖合の停泊している藩船に積みだされ、大阪まで廻送されたのです。「みくら」とは「藩倉」のことです。この藩倉を守るために幕末に置かれたのが「赤碕台場」ということなのかもしれません。)



(彫刻家流政之さんの有名な作品の一つがこれ「波しぐれ 三度笠」。作庭家でもあり、皆生温泉の旅館東光園の庭園は流さんの代表作です。東伯中学校区修学旅行団が本日宿泊するのが東光園です。)





(赤碕港の沖波止のすぐ右に、島影のように見えるのは、明日6年生が遊覧船に乗る予定の網代港付近の山です。)